ストーリーライターとしてある人のエッセイを書いている。
3歳の頃の話から、学生時代、恋の話、運命の人との出会い、子どもの話、将来の夢まで。それらを凝縮したエッセイにすることを仕事にしている。なぜと聞かれたら理由はたくさんあるけれど、まずは書くことがすきで、私がすきなことがみんなも好きなわけじゃなく、私の力を使って自分の思いをわかりやすく形にしたい人が世の中にいるなら、ぜひお手伝いしたいから。
手探りで、何一つとして同じ作品はなく、かける時間もちがうが、最終的な思いはひとつ。「ホンモノ」を作ること。私が本人になることはできないけれど、限りなく本人の当時の気持ちをよみがえらせて、なぜ今そう思うのか、なぜその夢なのかを探りあっていく。本人がこれだと納得したものを「ホンモノ」として世の中に送り出す。
作っていく中で本人を傷つけることもある。思い出したくない過去をほじくり返すこともある。だけど、それがあってこその今だから、そこを隠していたらいつまでたっても前に進めないし、やりたいことが伝えたい人に伝わらないと思うからあえて聞く。むしろ、そこが聞きたい。
どSなんだろうか、私は。そんなことを思いながら何度も推敲していたある日、本人から「私も書いてみました」とメッセージがきた。1500字程の長文はこれまでに聞いたことのないエピソードに加え、私が書いたものよりもホンモノに近い描写で正直、悔しかった。すべてにダメ出しされたような気がしてしばらく返信できなかった。
数時間後に正直にそれを伝えると、「そんなつもりはない」の返事と共に、ある本を読んだことはあるかと聞かれた。それが伝説のスピーチライター久遠久美の小説「本日はお日柄もよく」だった。聞けば、私に会ったときに小説のリアル版が現れたと思ったらしい。気持ちをうまく汲みとって言葉にする。しかし私と違うところは、最後まで書かないこと。草案を作るだけの作業で決してその名が世に知られることはない。
数日後、本屋に行って手にとってみた。買うかどうかはそれから決めようと思っていたけれど、横に数冊並ぶ著者の本を見た瞬間、買うべきだと感じた。ペラっとめくってすぐにレジに並んだ。
昼過ぎに帰り、娘にお昼ごはんを食べさせてから読み終えたのは、その日の夜だった。4度泣きそうになった。どれもスピーチの部分だ。久遠久美は私が書いたわけではないと言い張るが、スピーチに重要なタイムもはかって、流れも単語もすべて計算されたものにアドリブなどほぼないはず。それなのに、伝説のスピーチライターは書いたのはご本人ですという。
かっこよすぎだろ。わたしがブザマすぎる。ちょっと修正されたぐらいでムキになって。結局、わたしは自分の名前を売りたいだけで本人の気持ちなんて考えていないんじゃないか。どんなうまい文章が書けるか、どんな感動的なクライマックスにできるかばかりを気にして、本当に救いたい本人の思いよりも自分のプライドを立て直すのに必死だった。
これじゃあ、まだまだ。それにしても、やっぱり書くってすばらしい。言葉の力は世界共通だと思った。本の登場人物の一人に、オバマ大統領の演説をさっそく取り入れてクライアントのキャッチコピーに使う、敏腕コピーライターもでてくる。かっこいい。ワザを磨こう。頼られる人になろう。そのためには日々、自分の感情に素直になろう。そう思った。書きたいけど書けないんじゃない。書かないんだ。書かないのは自分に向き合ってないからだ。
私は生きている。あなたも生きている。これからも生きる。流れのままに生きる。気持ちのままに、気持ちのよい方向に。そのために書く。誰かの流れじゃなく、自分の流れを見失わないように。自分の速度で、自分の四季で、大海原にでるために。
方法は違えど、スピーチライターもストーリーライターも思いを届けるのは同じ。リアル久遠久美だと言ってくれる、カリスマライターだとくりかえし私を励ましてくれる人たち、本のマネをして言ってみると依頼人たちの力を借りて、前に進もう。一緒に進もう。
この本に出会えてよかった。出会わせてくれた人にも同じくらい感謝している。その本を紹介してくれた人に出会わせてくれた人、その前の出来事、その前、その前、さかのぼれば生まれてきたことに感謝することになってしまうけれど、それが使命なんだと思う。
そう思える生き方をしたい。そのために私は書く。やっぱりそこだ。だけど、前とはちがう。傷ついても傷つけても、互いがこの世に存在してよかったと思うまで向き合える、この仕事を選んだことに自信がついた。
私を傷つけた小説の主人公に救われる。言葉って、やっぱりおもしろい。
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