ゆれる振り子、表裏一体。

ゆれる炎は鳳凰。
だが、決してその姿を捉えることはできなかった。瞬時に姿を変え、また現す。炎の先はくちばしにも見え、羽の先端にも見えた。一羽が幾重にもなって見えているのか、それとも無数の鳳凰が天に向かって羽ばたいているのか。

炎を囲む集団に近づくと、一人の女性ががその姿を見たと話していた。割と近くに立っているのにその声は私には届かず、ただぼーっと、まっすぐに火を見つめる彼女の目だけが印象的だった。その目は捉えようのない形を捉えたような、それともあれは何だったのかともう一度確認しようとしているように私には見えた。

雲が龍に見えたり、飛行機雲が未来へ続く道に見えるのと同じで、それではないものをそれだと感じたいのは、目に見えないものでも必ずあると信じたいからで、神の化身であるお守りを買うのも、おみくじを引くのも、星占いを信じるのも、月の満ち欠けに合わせるのも、人間が生まれた頃から変わらず続けてきたことで、今もこれからも変わらない。

にも関わらず、「ないものこそがある」という思想はなかなか浸透しないのはなぜか。それは目を開けているからだ。目に見える世界では、自分を見ようとすると鏡が必要になる。鏡がなければ見えない。そこで不足を感じる。だけど、一度目を閉じれば自分はすぐに感じられる。

その原理で言えば目を開けたまま、炎の中に鳳凰を見出すのは無理だ。彼女は鳳凰を見たのではなく、目を開けたままじゃ見えないものを見たかったのだと推測する。つまり、自分を見たかった。彼女を通して私を感じた体験のひとつ。2018年10月14日 夜明け前2時。壱岐にて。