すべては喜びなのだとしたら、私以外の人は私が私を感じるために存在している。

「すべては喜びだ」という真実を受け入れられないのは、正解を探して努力して手に入れる生きる方の喜びに未練があるからだ。

ただ、ずっとそんな生き方に「何かが違う」と違和感を感じてきたのだから、そこにさらなる正解を求めるのではなく、理論としては理解できない(まだ正解だと言われることに快感を覚えるから)けれど、この違和感や腑に落ちない感じもすべてを包括する真理が「すべては喜び」なのだと考えられるようになっている。

これも娘のおかげで、(おなかの中にいる子の性別はでてくるまではっきりしないけれど、今のところ女の子なので娘とする)いまだにグルグルしている私を見かねて、こういうことだよと身をもって教えてくれたのだと、我が娘たちは、よく見ていてくれると、まさに、これぞ神だと思わざるを得ない。

ありがとう。

私に経験させてくれて。

私以外の人は、私がわたしを感じるために存在している。

2020年10月11日