さよなら、私。こんにちは、私。〜村上春樹「職業としての小説家」みうらじゅん「自分なくしの旅」を読んで〜

文字は単なる文字でしかなかった。昨日までは。

年末だから、なんとなく大掃除をしたら、読みかけの村上春樹さんの「職業としての小説家」で手が止まる。

2015年のたしか冬に、仕事帰りに、主人のいない一人晩ごはんをどう満喫しようかと、自宅から徒歩5分の行きつけのイオンで夕食を済ませ、それでも時間があまったから、本屋さんに寄ったら店頭で目に飛び込んできた。

こっちをじっと見つめるかのようなモノクロの人。ぶ厚くて、気軽に買うには少々躊躇する金額だったけれど、あの時はまだ娘もいなくて、財布のひもは今よりもだいぶゆるかったから、半分独身のような気持ちで、お酒も飲んでいないのに変なテンションでレジに持って行った。

変なテンションだったというのを、なぜ今も覚えているかというと、その日のFacebookに自宅近くで元彼に会った(元彼というのは表紙にいる著者のこと、モノクロの)と投稿したのを、後から恥ずかしく思ったから。

その恥ずかしさに向き合うのがきつかったのか、1/4まで読んで、ずっとそのままにしておいた。引っ越してもそのまま、本棚を整理してもそのまま、開くことはなかった。そして2017年12月12日、再び開く。

それから2日で読み終えた。文字は文字じゃなくなった。文字は言葉で、言葉は気持ちだった。

あの時、元彼のような気がしたのは間違っていなくて、私のことを知ってる人が書いた本だった。元彼なんて言いかた、とても変だと思う。でも、「そう、それ!」と興奮しながら、夢中でページをめくった。私のダメなところを知っていた。でも、そこがいいところだと教えてくれた。もう寝なきゃいけない時間なのに早く続きを読みたくて、私のことを教えて欲しくて、静かなリビングで激しく心を動かしていた。

私はたまに、期間限定でとても好きな有名人ができる。その人の生き方や言ってること、やってることをすべて知りつくそうとして、なかば宗教的になる。ちょうど今は、みうらじゅんさんで、みうらじゅんさんの書いた「自分なくしの旅」も、ドキドキ読み進めているところだった。

みうらさんにハマっていたら、たまたま、ほぼ日のツイッターでみうらじゅんさんが紹介されていて、どんどん検索していくと、みうらさんが書いた本「さよなら、私」のことを語っているラジオに行きついた。

「自分探しをすると、とても重くなる。煩悩が働く。さよなら私くらいがちょうどいい。どうしても人は自分のことばかり考えがちだから、頭の片隅において、たまに思い出したりするといい」

私の言葉で要約したものだけど、それは答えだと思った。それから数日、「さよなら、私」を唱え続けていたら、なんかいい感じになった。そして、大掃除をする気になった。そして、村上春樹さんの本を2年ぶりにめくることになる。

102ページに書いてあることは、これもまた答えであった。言葉は違えど、みうらじゅんさんが言っていることと同じだと私は思った。これから何度もこのページを開くことになるだろう。グレーの細いしおりをはさむ。そこに書いてあることを心に留めながら、残りの「自分なくしの旅」も読み終えた。

そして文字たちは言葉になって、今、私の気持ちになった。「さよなら、私。こんにちは、私」

山に登ろうとするといつも遭難した。登るにつれて道しるべがなくなる。周りに誰もいなくなって、とても心細くなる。かろうじて見つけた小さな山小屋でじっと凍えていると、お父さんとお母さんが迎えに来た。「もうこんな危険なことはやめた方がいいんだ」とその時は思う。命があるだけで、良しとすればいいじゃないか。

でもまた私は雪山の夢を見る。山頂まで行きたい。極度の冷え性で、雪なんて大キライなのに。死んじゃうかもしれないのに。下界でふつうにみんなと過ごしていてもいいのに。

でも、私は登らなきゃいけない気がするんだ。なぜだかはわからない。でも、なぜなんて考えなくていいと、村上さんも、みうらさんも言った(と勝手に私が思っている)

なぜを考える私、さようなら。

なぜを考えない私、こんにちは。

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