母であることも、女であることも、私が私であることも幻想だとしたら。

「あ、今日、母の日だ」

夫がCMか何かを見て言った。日曜日の朝、11時。雨。けっこう激しい。天気予報は当たり。昨日から体がだるく、寝れば治るものだとわかっていた。外は雨。そして母の日。

「そうだ、あなたたち! わたしに感謝しなさい」言葉がわかっているのか、わかっていないのか大人の都合でわかっているようで、わかっていないような一歳半の娘と、私の言葉は100パーセントの理解を示してくれる3つ年上の夫に向かって、もう一度言った。

「感謝して」

何かしてほしかったわけじゃない。ただ休みたかった。しいて言えば、何もしないことをしたい。けれど、夫は本気で何か考え始めているようだった。娘はマイペースに最近ひとりでよじ登れるようになったイスに片足をかけながら、お母さんが何か言っているみたいだからと、とりあえずの顔をこっちに向けた。

休日になると平日よりも余計に家事を率先してやってくれる夫が、いつもよりスピードアップして、朝ご飯を用意して、乾燥機をかけ、洗濯物をたたんで、トイレとお風呂掃除をしてくれる間、わたしは夕方まで本を読んだ。母の日であり、雨という状況が私に立ち上がらない勇気を与え続けてくれた。

2年くらい前に買って、最初の20ページくらいで挫折していた本。「脳はなぜ心を作ったのか」3分の1くらいまでは、どんどん読み進められた。だけど途中であぁ、またかと思った。また同じことが書いてあった。これで4冊目だ。

私という存在は幻想。気持ちは勘違い。私は宇宙の一部だから永遠。意識よりも先に動いているのは脳。脳の中にいる小人たちが私の個性であって、私が意識的に個性を作り出しているのではない。そんなことが論理的に書かれていた。

これまで読んだ3冊は論理的でもあるけれど、どこか抽象的に書かれていて、それを信じるか信じないかは読者に任されていた。けれど、この本は信じるとかではなく、そうなのだと書かれている。

意識すら私が感じている錯覚だと。

心が軽くなったような気がするけれど、むなしさも残る。じゃあ、何のために生きているのかなんてことになってしまう。途中で読む勢いが止まったのは、答えがわかってしまったからなのか、わかりたくないからなのか。こんな気持ちもすべて無意識が決めているらしい。

感謝する、感謝される、褒められる、けなされる、無視される、意識はすべて受動的なのだとしたら、自分で操作できるものなんてこの世には何もない。この文章をタイプする前に、脳がタイプする動きの準備をしている。なによりも鮮度が大切だと思っているこの気持ちすらも錯覚なのだとしたら。

天動説が信じられなかったように、この脳の仕組みも受け入れがたいものだとも書いてある。人はちっぽけな存在なんて、信じたくないもんね。私が私であることの証明をしたくて人は生きているようなもんでしょ。少なくとも私はそうだから。

母だから、母の日に感謝されたい。感謝されてもいい存在だ。母に感謝しよう。じゃあ、母って何? 私を産んだ人? 育てた人? 母がいなくなったらどうなるの? 死んだらどうなるの? そんな問いにすべて答えられる日が遠からず来るらしい。

ニーチェやソクラテスや釈迦は、ずっと唱えていることらしい。それが宗教としてなら心で感じられるのだけど、現実として受け入れる日はもしかしたら自分がロボットなのか人間なのか、これが夢なのか現実なのかわからなくなる日のような気がして、まだ怖い。

だけど私は最近、ずっとこんなことばかりを考えている。もうすぐ答えが見つかるような気がする。今日はもう一日が終わってしまいそうだけれど、その前に娘として母に連絡した。母は強いというのも幻想で、娘は守られるものだというのも幻想なのだとしても、私は母を母として好きでいたいし、母として強くあってほしいし、幸せであってほしい、そんな思いばかりがあふれて、うまく伝えたいのに伝えられない日だった。

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